Part 2 志のベクトルが合う運用プラットフォーム
おはようございます。渋澤健です。今度の土曜日(16日)は、いよいよコモンズ10周年フェスタを京都で開催します。大勢の方々とご一緒できることを楽しみにしていますので、是非ともご一緒させてください! 4月16日は東京でも開催します!さて、先週のブログ でコモンズ投信の構想の起源は、これからの金融業界の「ブティック化」であるという未来像をご紹介しました。今回のコモンズ投信の起源を遡ってご紹介する渋澤シリーズでは、それを具体化させようという試みであった「プロジェクトVECTOR」について記憶を解きほぐしてみます。
2003年。これからの金融業界のあり方について同じような問題意識を持つ同志を募り、「運用プラットフォーム」の構想を練り始めました。ただただ販売親会社が「売れる」ファンドを運用する運用機関の職員という立場ではなく、「良い」ファンドを運用するプロのファンド・マネジャーを支える構想です。
会社に縛られることなく、運用プラットフォームと投資顧問業契約を結ぶ関係で、ファンド・マネージャーが自身の信用、実績やブランドを養成できるような存在が業界で必要であると感じたからです。つまり、良いファンド・マネージャーが独立するハードルを下げたかったのです。
「 我が国の資本市場においては、活性化が望まれるが、年金等の機関投資家のパッシブ運用化が進んでいることもあり、投資主体は多様性に欠け、市場の厚みがなくなってきている。魅力ある資本市場となるよう新たな投資の担い手の育成が急務である。」
「我が国の資産運用の世界を見るに、大手機関投資家の一般勘定、大手証券会社等の系列投信・投資顧問業において運用が行われることが主であり、優秀な人材を主役として健全な運用を行い、社会に貢献する独立系運用機関の創業は稀である。「欧米人と日本人は違うDNA」とよくいわれるが、違いは人ではなく、実績とインセンティブが一致するような土台の違いであると考える。要するに独立への物理的・心理的障壁が高すぎ、優秀な運用者ための信用創造を支援するようなプラットフォームが不在である。」
と当時に作成した書類に私たちの問題意識を表明していました。
また、プラットフォームは販売会社を介さない直販モデルを模索していましたので、独立系投信会社の「創氏」である澤上篤人さんにご相談に伺いました。一緒に訪問したメンバーは、当時「レオス株式会社」を設立していた藤野英人さんでした。
澤上さんは、他の独立系投信会社を立ち上がることを促進されていたので、自社の直販・顧客管理システムを提供しても良いという話にも展開しました。この「お父さん」の存在がなければ、その数年後に複数の独立投信会社が立ち上がることはなかったことでしょう。
私がプラットフォーム投信会社を経営し、藤野さんがプラットフォームに最初に乗るフラッグシップ運用者になり、運用者の「ギルド」というネットワークを仕切るという絵も描いていました。
プラットフォームの基本的な考え方も明示していました。
・ 個人のエンパワーメントによって多様な視点からリスクキャピタルにアプローチ
・ 私的利益の追求と公共的価値の創造は一致する
・ 志のベクトルが同じ方向に向くステークホルダーが不可欠
故、このプラットフォームの仮名は「ベクター投信」でした。
戦略的なポジションにBetterやTallerではなく、Differentになりたい。ナンバーワンではなく、オンリーワンを目指したいという想いを示していました。
Product(商品=投資信託)を通じて、世のありようを変えたい。最小の資本と人で最大の付加価値を付けたい。顧客ニーズを追うのではなく、潜在ニーズを発掘したい。そして、夢中になって楽しむ。このような投信会社の設立を描いていました。
「ベクター投信」の設立の考え方や想いを、現在のコモンズ投信の考え方と比べると、その当時の想いを現在に引き続くことができたなぁと、現在から振り返って当時に作成した書類を目を通して驚いています。
起源の想いに共感し、大勢の同志や仲間たちの共助によってお互いを補い、現在のコモンズ投信を共創していることは、本当に感慨深いです。
2003年の初夏には、構想を実践に進めるために金融庁との意見交換も行なっていました。プラットフォームの考え方は理解できる。ただ、外部の助言者を置く場合でも、業としての責任は投信会社に存するので、会社内部に相愛の運用体制が必要と釘を刺されました。一方、翌年4月から投信会社の兼業規定は大幅に緩和されるというアドバイスもいただきました。
では、規制緩和の様子を観てから進めようという流れになり、「プロジェクトVECTOR」を一旦、棚上げすることにしました。2003年の秋ごろに藤野さんはレオス・キャピタルワークス株式会社に商号を変更し、私募投信や年金資産の運用助言事業を開始します。
自分自身が投信会社を立ち上げることに再び火が付いたのは、2年後の2005年の年末でした。(続く)