社会的共通資本と「わからん」
おはようございます。渋澤健です。この週末は瀬戸内のベネッセアートサイト直島で開催されたオンライン・フォーラム「今、瀬戸内から宇沢弘文~自然・アートから考える社会的共通資本」の総合モデレーターを務めました。
宇沢国際学園の占部まりさん、福武財団/ベネッセホールディングスという色々なご縁の複雑系なつながりで、このようなすてきな機会をいただけたことを心より御礼を申し上げます。約1500名のお申し込みをいただいた盛況な大イベントであり、多くの学びや気づき、そしてすてきな出会いに恵まれたフォーラムでした!
故宇沢弘文先生が提唱した「社会的共通資本」とはSocial Common Capitalともいわれ、すべての人々が「ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会の安定的な維持を可能にする自然環境と社会的措置のことで、これを社会共通の財産」とする考え方です。
登壇者としてご一緒させていただいた鈴木寛さんによると「宇沢論」とは、交換不可能な(市場でプライシングできない)大事なものがあるという概念です。「資本主義と闘った男」とも称されている宇沢先生のシカゴ大学の同僚であった故ミルトン・フリードマンの市場原理主義と対立したと言われていました。ただ、両氏は考えは異なるけど、互いへのリスペクトはあったようです。
セッション①の「教育」では鈴木寛さんに加え、ドミニク・チェンさん(東京から)、宮口あやさん(サンフランシスコから)、セッション②の「とりまくもの」=自然では舩橋真俊さん、森田真生さんという超クリエイティブ系のラインアップで、皆さんの濃くて、深くて、示唆に富むお話をファシリテーションするモドレーターとして知的のワークアウトさせていただきました。
鈴木さんが提唱する「近代化からの卒業」(これは、決してアンチ近代化ではなく、Beyond近代化の構想です)とはどのような未知の世の中なのでしょう。そこには人間の声だけではなく、自然の声にも耳を傾けるべきとご指摘される森田さん、および「モノ・カルチャー」ではなく多様性を重視する協生農法によってアフリカのブルキナファソの砂漠を生態が豊かな緑園へと変身させる検証実験に成功している船橋さんが、ヒントを与えてくれています。
ただ、ポスト近代化の世界でも、一人では何もできません。他との協力体制が必要となります。そのときに、様々な価値観や考え方にはドミニクさんが提唱するトランスレーション(例えば、デジタル化された情報を体感できるアナログ化など)が必要となりますし、権力集中型からコンセンサス型で答えを集約するブロックチェーン技術の実用化に取り組む宮口さんの視点からの展開に色んな可能性を感じます。
そして、アート。特に現代アートは「わからん」という声が少なくないでしょう。ただ、アートとは見えなかった価値(大切な数値化できないことも含む)を可視化させる力があると思います。フレーミングと言っても良いかもしれません。
「無限門」という李禹煥氏の作品が、ここに無ければ、この場所の景観を同じように楽しめたでしょうか。景色は変わっていない。けれども、作品を設置することで、見えていなかった美しさが、可視化できている。
この「フレーミング」という概念に、数値化が難しい企業の非財務的な見えない価値の可視化のヒントがあるような気がしています。見えない価値の正しい「答え」を定めることは困難ですが、「わからん」ことを前提に「問い」を繰り返すことが大事だと思います。
社会的共通資本や近代化の卒業が現実的なのか。それは「わからん」です。でも、わからんから、そこに存在感や可能性がない訳でもありません。この世の中で、人間では「わからん」ことの方が圧倒的に多いです。ただ、人間が「わからん」でも、そこに存在していることは否定できません。
「わからん」を拒否することなく、「わからん」で思考停止することなく、より謙虚に、よりオープンに、好奇心と想像力を活かせば、見えないものが見えてくるかもしれないですね。